建 学 の 精 神


人はスパナを握らなくてはならない
人が自らまたがり、走るオートバイという乗り物は、マシンの全てを知らなければ本当に人車一体の境地には、入れない。マシンの全てを体で感じるのだ。 頭でっかちの知識だけでは、そうはいかない。

ところで精神(サイキ)は、それだけでは成長することはできない。肉体と関与しあいフィードバックしあう事によって何かを学んだり、達成したりできるのだ。 肉体と精神は一体であり、影響しあっている。 しかし現代ではそのことは忘れられている。

肉体は物質であり、精神がそこに浸透して人間を形づくっている。オートバイも物質であるから訓練すればそこに乗り手の精神を流し込むことも、マシンから精神的なフィードバックを得ることも可能である。

人がスパナを握る意味はそこにある。 スパナは肉体とオートバイのかけ橋である。 スパナに習熟すれば肉体とオートバイが一体化し、その後、両者が乗り手の精神と一体化する。 スパナなしに、つまり乗るだけで人がマシンと一体になることは困難であろう。トリニティースクールの校章では、王侯貴族の象徴がスパナを握っている。 精神の高みを求める者は、どんなに富裕であっても自らスパナを握るべきである、そしてバイクいじりを最も高尚な趣味のひとつとして確立せしめたい、という強い主張が込められている。




古いバイクに乗るということ

現在、日本で主流となっているメカいじりは主体を人間側におき、その人の恣意的な好みでもって機械に変更を与えるものとなっている。 そこにあるのは、人間 → スパナ → バイクという一方通行だけである。

現代のクルマ、バイクを含む機械類は作られるにあたって機械自体が主張を持つことを許されていない。 人間の都合を最優先さ
れ、人間工学的に作られるほど、逆にマシンとの精神的一体感が希薄になっていくという皮肉な事実に注目すれば、それはあきらかだ。 古い機械はそう作られていない。したがって上述のような一方通行のメカいじりをするのは間違っている。

まず機械の主張に耳を傾けるべきだろう。 不便だからといって現代の部品を投入したり、製造当時の環境を考慮することなく、現代のものと比較して不当に低い評価をバイクに与えてはいけない。古い時代に思いをめぐらし、現代のものが何故かくあるのかを発見したりする温故知新を忘れてはいけない。




なぜ英国車にのるのか

英国車の神髄は、機械いじりが一方通行ではなく、機械と人間が双方向で対等に対話するところにある。 人間から機械に指令が行くだけの一方通行システムにおいては人が機械に教えられることはほとんどない。 そこで学ぶことは表面的なバイク工学までに過ぎず、宇宙や存在、時間といった高度に哲学的(したがって人間的)命題に思い至るのは困難である。 したがって英国車いじりにおいては、スパナが双方向フィードバックシステムの重要な伝達経路をになうので、スパナに習熟する必要性と意味のありかたが他のバイクとは異なる。研ぎ澄ました精神と習熟したスパナで機械と双方向対話し、一種の変性意識に至る体験は強烈であり、英国車フリークをそのとりこにして離さない。

当校の目的はそんな仲間を増やすところにある。広くて深いブリティッシュバイクの世界を探求せんとする紳士淑女の諸君が集合することを願ってやまない。

         トリニティースクール校長 富成 次郎